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Makiの来歴

幼少期〜中学生編

 1995年修羅の国に生まれ,幼少期は人口3万人の小さな田舎町で自然の中に育つ。
物心着く前に両親が離婚。これ以降は、僕がこの世で最強と思う母から育てられる。

 幼少期に悪さを繰り返した結果、母親から週6日、週合計24時間以上の練習をしている地元のバドミントンチームに投獄され、毎日バドミントンに明け暮れる。宇宙人と呼ばれ、意味不明な行動を日常的に行う(練習と称して飛んでるトンボをラケットで打つ、合宿中に練習が嫌すぎて体育館の屋根に登って寝てみなさん総出で大捜索が始まるなど…)。こんな事をしていれば、指導の一環として日常的に物理的な指導が入る←今思うと全てに対して完全に僕が悪い。
バドミントンのお陰で、高校まで特に受験という受験もなく進学できたが、この代償として基礎学力は小学6年生レベルで止まる。

〜叩く殴る蹴るなんてあり得ない?
だって動物には言葉で叱っても分からないでしょ?〜

高校生編

 高校まで,受験なしに特待進学できたはいいもの,肝心のバドミントンにおいても、勝負の世界であるにも関わらず生まれつきの平和主義を存分に発揮する。例えるのであれば「勝利?何それ美味しいの?」状態。どちらかというと強さよりも上手さを求め、ガラパコス化した結果、特有の強みを身につける。
勝利よりも「どれだけ芸術的なプレーができるか」、「人を魅了できるか」、「かっこいいと思われるか」そんなことばかり考えていた。監督からすれば、本当にいい迷惑な選手となる。

 話は変わり、高校生の時に寮である曲を耳にする。最も印象に残ったのが,「I’ve been to countries and cities I can’t pronounce. And the places on the globe I didn’t know existed  」≠「言葉がわかんないような国や街に行ったことがあるし、地球上で存在すら知らんかったの場所に行ったことがあるぜ」。音楽の曲調自体もそうだが、歌詞の意味が抜群かっこいいと思った。いつかこんなこと言ってみたいと、この時に初めて、世界に対する憧れや理想を思い浮かべるようになる。

 こんな競技生活を経験して勝負は苦手だったが、人を育てるという意味で、中学・高校の時に出会った先生や指導者の姿を見て指導者っていいなと思うようになる。この経験から、教師になりたいと強く思い久々に熱意を発揮する。
 校内で選ばれれば99.9%合格する指定校推薦で地元の大学を目指すが見事に落ちる(書類送っただけで面接すらしてない)。そして、その年に指定校で落ちた人として、一躍時の人となるが、結果は覆えらない。仕方なく大学から大東京に上京するが、この選択が、Makiの人生を大きく、大きく変えた。順当に地元の大学に受かっていれば、この記事を書くこともなかっただろう。

神様のいたずらって本当に面白い。本当に運命を感じる。神様ありがとう

大学生

 大学進学と共に大都会東京に上京すると、大学で出会った人間たちには、今までの友達達とは「育った環境」、「考えていること」、「見ている世界」など、まるで同年代とは思ないギャップを感じ世界の広さを知る。その中でも、僕の殻を破ってくれた同郷の先輩との出会い。この出会いが、Makiの人生を大きく、大きく変えた。この人と出会ってなければ、この記事を書くこともなかっただろう。そして、初の海外一人旅。これまでの常識を覆されると共に、これまでに感じたことのない心地よさを感じる。ここで初めて、将来は世界一周しようと固く決意をする。

ただ、この人からお酒の楽しさ、素晴らしさを教えてもらったが故に、後にアル中を発症する。

〜出会いは価値だ。酒は出会いを呼ぶ。すなわち、酒を飲むことは価値がある。まきを〜

大学院生編

 大学卒業後は大学の喫煙所で仲良しだった先生に誘われ、その流れで大学院に進学する。研究職は変わった人が多いと聞いていたが、その環境に入れば自分もその一員と周囲に認識されるようになる。
 大学院在学中は、人の顔写真を撮り、1500人以上にアンケート調査を行い、「人間の表情認知能力を客観的に測定するテスト」を作成。約10万字,200ページの論文を執筆する。お金も、時間も、労力もかかり、学会で発表すると割と多くの反響があった。その結果として、学会に論文として提出しようと意気込み、担当教員に添削を依頼するも、教授からの返信は依頼から5年経った今でも返ってこない。どうなったんだろうか。。。

 大学院終了後は、「消息不明になる人が多い」という都市伝説から来る不安を感じると共に、将来世界に出るのであれば、まずは日本における一般社会を知らねばと思い就職を決意する。そして、せっかく日本で働くのであれば、日本らしい会社がいいかなと思い、割と名の知れた財閥系の不動産に就職する。

 この会社・業界を選んだ基準は特に無い。正直に言うと、修士論文に追われていて、早く内定が決まるのであれば業界や就職先はどこでもよかった。結局この1社しか受けず貴重な新卒カードを浪費する。(もう少し頑張れ)

〜ブラック企業?そんなこといいのさ別に。どうせやめるから〜

社会人編

 入社当初は、年収1,000万プレイヤーを目指し、休日も気にせず熱心に働こうとする。しかし、残業時間の制限という壁に負ける(現代の日本社会の制度に圧殺される)。数字を残せと言う割には、残業時間は制限されている。例えるならば、部活で監督から試合に勝てと言われる割には、自主練はするなと言われているようなもの。朝4時から朝練をしていたこともある僕にとっては理解できなかった。(社会って厳しい)時間で解決する不器用な僕にとっては大きな壁となり、入社当初の目標達成は難しいと感じるようになる。

 仕事内容的も、ノーマッドに憧れる僕にとっては家というものに興味がないから全く身が入らない。扱う商材も港区などの億ションであったため、都会コンクリートジャングルで庭もない一室に何億ものお金を払う人たちを理解できない。だから、やりがいを感じられるわけもなく、契約書にサインする姿を見る度に、申し訳ない気持ちになり罪悪感を感じていた。

 社会人2年目の冬、長い拘束時間と、日頃の行いの罪悪感が原因でアル中になる。木曜日の朝になるとスト缶が1箱以上空いていることなんてザラだった。休みにも関わらず客から電話はかかってくるが、火曜の朝から水曜の夜まで酒を浴びているため、記憶なんてあるはずもなく、木曜日は客からの電話が鳴る度にビクビクしていたのも懐かしい。

 一つ言えることとしては、同世代と比較して割とお金はよかった。ただ、お金に執着がない僕にとっては大したモチベーションにはならなかった。だが、この頃に稼いだお金のお陰で今回の旅が実現した。感謝。ありがとう。

 社会人3年目に、事務所も変わり、3年目ということもあり、割と自身の裁量での仕事が多くなった。この頃になると、かつて感じていた罪悪感は感じなくなるようになっていた。「感覚が麻痺するとはこういうことなんだな」とふと感じた。ただし、相変わらずの拘束時間。毎日、何のために生きているのかと考えるようになり、毎朝の職場への足取りは日を追うごとに重くなっていった。2年強の会社員生活を通じて、職場の上司、先輩方のことは本当に大好きで恵まれたが、どこまでいってもこの会社で働いている人たちと自分は目指す場所が異なる。

 2年目の6月にようやく退社を決意。お休みの水曜日に講師登録の書類を送った。翌日の木曜日に教育委員会から電話が鳴り「やります」と即答。翌日の金曜日に、上司に「仕事やめます」と言い、着心地の悪いスーツと足が蒸れる革靴を新宿駅のゴミ箱に突っ込みコンクリートジャングルに別れを告げた。もちろん母には、「仕事辞めたから、来月から実家にまた住ませて」と事後報告。持つべきものは資格だなと、この時しみじみ感じた。

 小学校の教員になってからは、プールの監視員さん,校庭の草抜き屋さん,駐車場整理員さん,植木屋さん,鮭の飼育員さん,チューリップの苗やさん,多分チョークを握って行う授業の回数を数えるのは20本の指があれば容易かった

〜仕事にプライドなんて必要ないよ。
だって求められる仕事がある限り誰かの役に立っているんだもん〜

世界制覇編

2023.04.04,27歳の春、ようやく、長い間夢に見ていた旅がここから始まります。

やっと立ったスタートライン。やりたいことをやってきます。